『イメージからの発想』森本哲郎(東京書籍)
中3がテスト勉強をしている。
国語の教科書を広げていた。
森本哲郎氏の書いた『イメージからの発想』から
問題が出題されていた。
どれも他愛のない問題ばかりだ。
むしろ馬鹿馬鹿しい設問といえる。
それに比べたら本文は恐ろしい力を持った文章だ。
こんな文章が書きたい!って思わせる文章だ。
世界遺跡をまわって写真を撮るが
いつも電線や電柱、マイクロバスなど
現代的なものが枠の中に入ってしまう。
それを見た友人の写真家は
こんな撮り方じゃダメだと著者に言う
そんなところから始まり
人は「自分のイメージで対象を見ている」ことを言い
ジャーナリストや詩人はその「自分の抱くイメージ」と戦わなければ
月並みなものしか書けないという。
人々が抱くイメージを突き抜けたところに
本当に価値あるものがあるという。
「自分の抱いているイメージとは、自分が作り上げている世界そのものである。
それを否定することは、自分を否定することだ。
どんな人でも、自分をそう簡単に否定できない。
自分のイメージが崩れていくのを誰も好みはしない。」
最後にサハラ砂漠のエピソードが出てくる。
我々のイメージは「砂の海」であるが
実際のところそれは全体の7%ほどで
そのほとんどは「石ころだらけの不毛地や淡褐色の砂丘」だそうだ。
しかし森本氏はその体験を通して別のイメージを持つことが出来た。
「取材とは、規制のイメージが別の新しいイメージに生まれ変わる、
その道行きのことなのである。」
という言葉で教科書は結ばれている。
まったくカッコイイ文章だ。
途中に突如現れる芭蕉と蕪村もいい。
私の好きな詩人である西脇順三郎が何度も書いている
詩とは離れた2つの物を並べてみて
そこに現れる新しいイメージである
みたいな感じで、
これは彼が初めて言ったことでもなんでもないが
私は彼からこういうことを一番学んだ。
今回の森本氏の話によると
人間は自分の持つイメージが崩れることを嫌がる。
私はこれを読んで思ったのは
「だるま落とし」のイメージだ。
いちばん上にダルマさんがいて、
下にあるいくつかの座布団のようなものをトンカチで抜いていく。
抜くたびに不安定な状態に一瞬おちいる。
「崩れるんじゃないか?」って息を止める。
倒れていないダルマさんを確認して
トンカチを相手に渡す。
ひとつ抜かれると今までは離れていたものが
急に隣り合わせになる、
これは今まで離れていたものが
急に隣り合わせに並べられることと似ている。
今、生徒の帰った教室の窓からは
丸い月が見える。
雲がその下をかすめるが
すぐにまた真ん丸く輝く。
その月を見て
お月様ではウサギが餅をついていると思うのか
アポロ計画は本当に成功したのか?と思うのか
「ドロロンえんまくん」のように
空にぽっかりと開いた穴で
閻魔大王の住む世界との扉と見るのか
それはひとそれぞれのイメージだ。
そういったこととはかけ離れた
月のイメージを生みだすような
文章が書けるようになりたいと願っている。
確かに文章をこうやって書いて発表するというのは
ある意味、現実逃避ととられる場合もある。
私の文章が「逃避」ととられるのは
ひとつ飛ばした現実どうしを
ポンとふたつ並べて語りたいって思っているからだろう。
だってそれは読む人にとっては
全く現実の生活では関連のないことで
イメージを崩されるようでおもしろくないのかもしれない。
だからといって「月並みなイメージ」を重ねる必要はない、
そう思っています。
尚、『イメージからの発想』は
「『私』のいる文章」からだそうです。
それでは、
また。
国語の教科書を広げていた。
森本哲郎氏の書いた『イメージからの発想』から
問題が出題されていた。
どれも他愛のない問題ばかりだ。
むしろ馬鹿馬鹿しい設問といえる。
それに比べたら本文は恐ろしい力を持った文章だ。
こんな文章が書きたい!って思わせる文章だ。
世界遺跡をまわって写真を撮るが
いつも電線や電柱、マイクロバスなど
現代的なものが枠の中に入ってしまう。
それを見た友人の写真家は
こんな撮り方じゃダメだと著者に言う
そんなところから始まり
人は「自分のイメージで対象を見ている」ことを言い
ジャーナリストや詩人はその「自分の抱くイメージ」と戦わなければ
月並みなものしか書けないという。
人々が抱くイメージを突き抜けたところに
本当に価値あるものがあるという。
「自分の抱いているイメージとは、自分が作り上げている世界そのものである。
それを否定することは、自分を否定することだ。
どんな人でも、自分をそう簡単に否定できない。
自分のイメージが崩れていくのを誰も好みはしない。」
最後にサハラ砂漠のエピソードが出てくる。
我々のイメージは「砂の海」であるが
実際のところそれは全体の7%ほどで
そのほとんどは「石ころだらけの不毛地や淡褐色の砂丘」だそうだ。
しかし森本氏はその体験を通して別のイメージを持つことが出来た。
「取材とは、規制のイメージが別の新しいイメージに生まれ変わる、
その道行きのことなのである。」
という言葉で教科書は結ばれている。
まったくカッコイイ文章だ。
途中に突如現れる芭蕉と蕪村もいい。
私の好きな詩人である西脇順三郎が何度も書いている
詩とは離れた2つの物を並べてみて
そこに現れる新しいイメージである
みたいな感じで、
これは彼が初めて言ったことでもなんでもないが
私は彼からこういうことを一番学んだ。
今回の森本氏の話によると
人間は自分の持つイメージが崩れることを嫌がる。
私はこれを読んで思ったのは
「だるま落とし」のイメージだ。
いちばん上にダルマさんがいて、
下にあるいくつかの座布団のようなものをトンカチで抜いていく。
抜くたびに不安定な状態に一瞬おちいる。
「崩れるんじゃないか?」って息を止める。
倒れていないダルマさんを確認して
トンカチを相手に渡す。
ひとつ抜かれると今までは離れていたものが
急に隣り合わせになる、
これは今まで離れていたものが
急に隣り合わせに並べられることと似ている。
今、生徒の帰った教室の窓からは
丸い月が見える。
雲がその下をかすめるが
すぐにまた真ん丸く輝く。
その月を見て
お月様ではウサギが餅をついていると思うのか
アポロ計画は本当に成功したのか?と思うのか
「ドロロンえんまくん」のように
空にぽっかりと開いた穴で
閻魔大王の住む世界との扉と見るのか
それはひとそれぞれのイメージだ。
そういったこととはかけ離れた
月のイメージを生みだすような
文章が書けるようになりたいと願っている。
確かに文章をこうやって書いて発表するというのは
ある意味、現実逃避ととられる場合もある。
私の文章が「逃避」ととられるのは
ひとつ飛ばした現実どうしを
ポンとふたつ並べて語りたいって思っているからだろう。
だってそれは読む人にとっては
全く現実の生活では関連のないことで
イメージを崩されるようでおもしろくないのかもしれない。
だからといって「月並みなイメージ」を重ねる必要はない、
そう思っています。
尚、『イメージからの発想』は
「『私』のいる文章」からだそうです。
それでは、
また。