平面のコピー、立体のコピー~鍾乳洞とパズルと迷路
先日、子供と一緒に鍾乳洞へ行った。
断層がぽっかりと口を開き数キロの洞穴が続いている。
入り口付近は冷蔵庫を開けたときのような冷気が吹き出している。
「すいません、ノースリーブだと赤ちゃんは寒いかもしれません」
真夏なのに寒いと言われ、驚いた。
入り口は高さ1メートルと狭くて、かがまないと通れない。
足元は悪く、洞窟の天井からは水滴がしたたりクツがドロドロに汚れる。
窮屈な穴がずっと続くのかと思うと急に吹き抜けのような広間に出る。
広間の天井は高く、小さなコンサートでも開けそうだ。
前を歩いていたギャル系の女の子2人がしきりに写メを撮っていた。
「けど、これって絶対に来なきゃわかんないよね。
この感じって写真じゃ伝わんないよね。」
そう、我々が目にするものは異国の建物や風景の写真であったり映像であったり、
文学作品のさわりであったり、要約であったり、
成功者の出す本であったり、インタビュー記事であったり、
実際とはかけ離れていることが多い。
昔よく夏休みの最後の日に、読書感想文が書けていなくて
人が書いたあとがきや、感想文の感想を
字数だけを気にしながら書いたものだ。
実際には立体であったり、臭いも温度もあるものを
二次元のコピーを見てあれやこれや語ることがある。
それは単なる素人の撮った写真であったり
表面だけ、形だけマネしたコピー品だったりする。
「脳を鍛える」とか「頭をやわらかくする」とかっていうコピーをうたい
多くのパズル本が書店にならんでいる。
見た目はどれも似ていて、作っているのはその道のプロだ。
けれどあれらの本は脳を鍛えるために、頭を柔らかくするために
はじめから作られているのだろうか?
私には単なる平面的なコピーにしか思えない。
パズル複製のプロセスというものは上手くコピーできている。
けれど目的や信念みたいなものはコピーできていない。
真っ白い紙だ。
コピーガードがかかっているわけじゃない。
目的や信念にコピーガードはかけられるものじゃない。
コピーする側にコピーガードがかかっている感じだ。
どういうことかと言えばパズルの目的とか作られた経緯とか
そういったことがあまり考えられてない。
ただ流行りだし、バラエティーに富んだものを作ろう
ってしている出版社の都合しか感じられない。
(商売としてはそれでもちろんOKかも。
制作を依頼された側もそれでOKかも)
我々がものごとをマネするときには表面じゃなくて
その構造をコピーしないといけないと思う。
算数や数学や日常生活で「これっておもしろいね」「不思議だね」っていうところから
パズルを考え始めるのではなくて
既存のパズルをただ複製するだけで
印刷して、書店に並べる。
「な~んだ、この程度のものか」ってなると思う。
「それはよくできてるな~」「美しいな」とか
「やられた!」「なんかフシギ~」っていう原石のような思いがあって
それを子供が直接に感じることで算数や数学に興味を抱き
学ぶということ、そして学び続けるおもしろさ
それが生きる手段につながるということを
感じさせるようなパズルと迷路の教材を作りたいと思う。
自分がパズルはおもしろい、算数はおもしろい
学ぶこと考えることはおもしろいって感じるようになった体験を
その立体的な構造をそのままコピーして伝えられるような
そんなパズルと迷路を作りたい。
鍾乳洞は広間を抜けると足元の悪い階段を登る。
かがみこんでズボンを汚して別の断層へ入っていく。
暗くて、寒くて、風が岩の間から吹きつけていて
「おい、今って夏だったよね」って思わせる。
手すりにつかまり足を滑らさないように一歩一歩進む。
一説によると洞窟は数キロで終わりではなくて
数十キロ先の隣の県までつながっているという。
単なる言伝えかもしれない。
行方不明の犬がはるか遠くの海の近くで発見されたという。
50万年以上の時が作り出したこの洞穴。
ひとつひとつの岩が気の遠くなる時間をかけて作られていることに驚く。
鍾乳洞にパズルと迷路のアナロジーを見出すというのは
必然といえば必然だ。
暗くて寒い洞窟の先へ進むのはあまり気乗りがしないものだ。
本能的な不安が常に付きまとう。
4歳の息子に「引き返そう」と言った。
息子は私の方を見ずに暗い穴の先を見つめながら
「おもしろそうやん。もっと行ってみよう」と言った。
その言葉は我々人間の文明の発展の原点に近いものだ。
ひとまず状況のわかる広間を抜けて
未知なる洞窟へと進む
その一歩一歩こそが
模倣しなければならない大切なことだと感じた。
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断層がぽっかりと口を開き数キロの洞穴が続いている。
入り口付近は冷蔵庫を開けたときのような冷気が吹き出している。
「すいません、ノースリーブだと赤ちゃんは寒いかもしれません」
真夏なのに寒いと言われ、驚いた。
入り口は高さ1メートルと狭くて、かがまないと通れない。
足元は悪く、洞窟の天井からは水滴がしたたりクツがドロドロに汚れる。
窮屈な穴がずっと続くのかと思うと急に吹き抜けのような広間に出る。
広間の天井は高く、小さなコンサートでも開けそうだ。
前を歩いていたギャル系の女の子2人がしきりに写メを撮っていた。
「けど、これって絶対に来なきゃわかんないよね。
この感じって写真じゃ伝わんないよね。」
そう、我々が目にするものは異国の建物や風景の写真であったり映像であったり、
文学作品のさわりであったり、要約であったり、
成功者の出す本であったり、インタビュー記事であったり、
実際とはかけ離れていることが多い。
昔よく夏休みの最後の日に、読書感想文が書けていなくて
人が書いたあとがきや、感想文の感想を
字数だけを気にしながら書いたものだ。
実際には立体であったり、臭いも温度もあるものを
二次元のコピーを見てあれやこれや語ることがある。
それは単なる素人の撮った写真であったり
表面だけ、形だけマネしたコピー品だったりする。
「脳を鍛える」とか「頭をやわらかくする」とかっていうコピーをうたい
多くのパズル本が書店にならんでいる。
見た目はどれも似ていて、作っているのはその道のプロだ。
けれどあれらの本は脳を鍛えるために、頭を柔らかくするために
はじめから作られているのだろうか?
私には単なる平面的なコピーにしか思えない。
パズル複製のプロセスというものは上手くコピーできている。
けれど目的や信念みたいなものはコピーできていない。
真っ白い紙だ。
コピーガードがかかっているわけじゃない。
目的や信念にコピーガードはかけられるものじゃない。
コピーする側にコピーガードがかかっている感じだ。
どういうことかと言えばパズルの目的とか作られた経緯とか
そういったことがあまり考えられてない。
ただ流行りだし、バラエティーに富んだものを作ろう
ってしている出版社の都合しか感じられない。
(商売としてはそれでもちろんOKかも。
制作を依頼された側もそれでOKかも)
我々がものごとをマネするときには表面じゃなくて
その構造をコピーしないといけないと思う。
算数や数学や日常生活で「これっておもしろいね」「不思議だね」っていうところから
パズルを考え始めるのではなくて
既存のパズルをただ複製するだけで
印刷して、書店に並べる。
「な~んだ、この程度のものか」ってなると思う。
「それはよくできてるな~」「美しいな」とか
「やられた!」「なんかフシギ~」っていう原石のような思いがあって
それを子供が直接に感じることで算数や数学に興味を抱き
学ぶということ、そして学び続けるおもしろさ
それが生きる手段につながるということを
感じさせるようなパズルと迷路の教材を作りたいと思う。
自分がパズルはおもしろい、算数はおもしろい
学ぶこと考えることはおもしろいって感じるようになった体験を
その立体的な構造をそのままコピーして伝えられるような
そんなパズルと迷路を作りたい。
鍾乳洞は広間を抜けると足元の悪い階段を登る。
かがみこんでズボンを汚して別の断層へ入っていく。
暗くて、寒くて、風が岩の間から吹きつけていて
「おい、今って夏だったよね」って思わせる。
手すりにつかまり足を滑らさないように一歩一歩進む。
一説によると洞窟は数キロで終わりではなくて
数十キロ先の隣の県までつながっているという。
単なる言伝えかもしれない。
行方不明の犬がはるか遠くの海の近くで発見されたという。
50万年以上の時が作り出したこの洞穴。
ひとつひとつの岩が気の遠くなる時間をかけて作られていることに驚く。
鍾乳洞にパズルと迷路のアナロジーを見出すというのは
必然といえば必然だ。
暗くて寒い洞窟の先へ進むのはあまり気乗りがしないものだ。
本能的な不安が常に付きまとう。
4歳の息子に「引き返そう」と言った。
息子は私の方を見ずに暗い穴の先を見つめながら
「おもしろそうやん。もっと行ってみよう」と言った。
その言葉は我々人間の文明の発展の原点に近いものだ。
ひとまず状況のわかる広間を抜けて
未知なる洞窟へと進む
その一歩一歩こそが
模倣しなければならない大切なことだと感じた。
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