カルピスウォーターと迷路にこだわる理由
私は昨日、何かを発見した。
恐らく「変換」というカギだ。
それは「カルピスの原液」くらいに濃いものだから
教材としては不適当だ。
一部マニアもいるがどうかな・・・
やはり私は「カルピスウォーター」を売らないといけない。
それも「ちょっとこれ薄くない?」というくらいのものを。
ところでこの前の教材展ではパラダイムの転換があった。
使う立場から作る立場へ、
買う立場から売る立場へと。
そしてまた昨日はもっとはっきりと転換したと思う。
今まで塾用教材を見ていて
「味もそっけもない」などと言っていたが
それはそれで十分なんだということに気付いた。
一歩下がって先生が教えやすいもの
生徒が使いやすいもの
販売店が売りやすいもの
長く売れるもの
そう考えるとあのような形になるのは仕方のないことだ。
けれど、けれど、けれど、
けれど、もちろん、だからそれと同じことをすればいいか
っていうことにはならない。
何のための「迷路とパズル」だい?
何のための「りんご」なのか?
何のために塾をしているんだ?
何のために教材を作っている?
何のためにブログを書いている?
何のために?
何のために?
勉強のための勉強っていうのは必要な時期もある。
けれどいやいややらされているものに
高い生産性や効果や成果というものはのぞめない。
「おもしろいな」とか興味をもってやったことが
結果的に学力をつけていたというものを提供したい。
わかりやい例では本を読むのが大好きな子がいるとすると
その子は人目を盗んでは本を読み
隙間の時間を見つけて本を読む。
そんな子は国語の勉強をしなくても
ある程度平均した点数をとることが出来る。
その子は勉強してるつもりなんか全くなく
自分の興味を追求しているだけだ。
つらい思いをして成績を上げることの尊さもある。
努力の大切さを教える必要もある。
私の仕事はそういったことの前段階で
勉強に必要ないろいろな基礎的な力を
迷路やパズルに熱中することによって身につけてもらう手伝いをすることだ。
だから私は低学年にこだわるし
迷路やパズルにこだわります。